ご、5年ぶり

どこへも行けない連休で暇を持て余し、久しぶりに昔やっていたブログを見てみようと思って開き、遡ることはや一時間。

まず「最後に更新したのが5年前」という事実に心底たまげてしまった。

高校生だった自分、大学生だった自分の考えていたことやその時聞いていた音楽、

その時々に全力で好きだった人びとのことまで明け透けに書いててびっくりするやら、恥ずかしいやら…。

自分でつけたはずの友人のあだ名で、ひとりだけ(これは…誰だったっけ)という人もいたりして、ひっくり返りそうになりました。

 

そして当時学生だった私に、やさしいコメントをくださっていた方々がいたことも改めて思い出しました。

みんな年上だった。みなさん元気にされているんだろうか。

なんだかもう親のような気持ちで、あの頃あの子が本当にお世話になりましたって心からのお礼を言いたい。

考査だのバイトだの、ライブがどうだのとただただポヤポヤしている学生の小娘に対して、あたたかいエールを送ってくださってたのを、じっくりなぞるように見て涙が出そうになった。なんてことなの…。

本当にここは私の居場所だったんだなあ。

 

私は26歳になりました。夏になれば27歳になる。

ほんとうに、光陰矢のごとしだわ。決して比喩なんかじゃない。

仲良くしてくださってた方のブログをのぞきにいったら、7年前のエントリーでオリンピック招致が決まった時のことも書いてあった。

あの時こんなことになるなんて誰が想像できただろう。

 

更新しない間もいろんなことがあったけど、やっぱり点と点がつながって線になっていくように当時から今の自分につながっているのは確かな訳で、不思議な気分。

 

大学時代に付き合っていた人は日記をつける人で、

「日記っていうのは、ずっとあとになってから読み返して、考えていたことや書いたことに対して恥ずかしくなったり死にたくなったりするところまでがワンセットなんだよ」

って言ってた。今ならそれがとてもよくわかる気がする。

幼くて、拙くて、今思えばばかみたい。ってことももちろんあるけど、

それでもいつかは(それがその時の自分だった)と受け入れることができるようになる。それが少しずつ大人になるってことなのかもしれない。

書いておいてよかったな。自分のことなのに、誰が何を言ったとか、私がなにを見てなにを感じたとかって、本当にあっけなく忘れてしまうものだから。

就活終わりました

久々に開いたら、ブログの書き方もうっすら忘れかけている…。
ずっと憧れだった某出版社に就職が決まりました。
約1か月の就職活動、特段辛いこともなく(就活エリートみたいな学生に会うのはきつかった)終えられてよかった。
昨年秋から体調を崩したので、就活はここで終わりにする予定(気になっていた企業あと2つ程度の説明会だけは行こうかな)。
いろいろ書きたいことがあるけれどとりあえずはここまで。

テストやゼミのテーマ発表が無事終わり、先週末から南アルプスの山に部員を連れて行ってきた。
大好きな仙丈ケ岳は生憎の天気で綺麗な稜線は拝めなかった。残念。ほんとうに美しい山。
行動の遅い1年生にいらいらさせられるのも、自分が成長したってことなのかなあと帰ってきてから思った。


この2年のあいだに随分わたしは変わったと思う。
今年の4月からの毎日はほんとうに濃くて、あっという間だった。
基本的にゼミ中心の生活、勉強に勉強に勉強。いい毎日だった。
開館時間、放課後も8時の閉館までほぼ毎日図書館にいるのでついに司書さんに顔と学籍番号覚えられて嬉しいやら恥ずかしいやら
春休みに始めたバイトは、ここまで本気で勉強できる時間は人生で最後かもしれないという思いからたった3か月でやめたんだった。気合入りすぎ。店長いい人すぎ。
父親がかけてくれていた学資保険のおかげで、お金の心配をせずに大学に行けているのだから、もらった時間と環境を有意義に使おう。
大学にすら行くことができなかった去年のわたしとは大違いで、こんなに変わることができるものかと不思議。
遊びに楽しそうな学生は大勢いて、それはそれですごくいいと思うし、たまには少しいいなと思ったり
去年は鬱鬱とした自分自身が本当にいやだったから、そういう集団を目の敵みたいにしていたけど今は違うな。
自分のしていることに迷いがないし胸を張れるから、割り切っていられる。気分がいいし、もうちょっとやそっとのことで簡単に落ち込んだりしない。
過信しすぎるとまたすぐ崩れそうだけどたまには、少しは自分を認めよう、がんばったよ春期、、

ばななさんか角田さんか江國さん、そのあたりといったらすごく失礼だがわたしのとても好きな作家の誰かが、失恋は清々しいとか気持ちがいいとか書いていた気がする。あと乱暴な言葉で男の人のことを話すのってせいせいするとか。とってもよくわかるなあと思う
昨晩は夜中に缶ビールを2本あけて(わたしもビールをひとりで開ける歳になった)寝たので、とてつもない寝坊をするかと思いきや今朝はきっかり朝8時に目が覚めた。
なにしろ昨日はほんとうに好きだったひとからあれこれと酷いことをさんざん言われて、その挙句にわたしがどうしても引き留めたいなら関係を続けてもいいというようなことまで言われた翌日だったので、起きてそのまま顔も洗わずに今までにもらったアクセサリーやらフォトアルバムやらうちに置いていったパジャマやら下着やら日用品、ついにはもらった手紙までもひとまとめにして小さい段ボールに詰めた。
夕方それを宅急便屋さんに持って行っていつになく丁寧に彼の名前を伝票に書いて明日の夜仕事が終わって帰ってくるであろう時間帯を指定して託してきた(着払いはあまりにも可哀そうかなと思ってやめたのは後悔)
人のことを好きになるって愉快だ。そうして、そのひとのことがよくわからなくなったり、もういいやってぷつんと糸が切れるみたいにしてどうでもよくなるのもまた、すごく愉快、と強がりでなく思う。
昨日の今日のことをこんなに乱雑に書いているのだから、後日私がこれを読みかえしたら強がりって思うのかな。そうだとしたらすごく嫌だな。でも10パーセントくらいはきっと思って笑うんだろう。ぎゅっと抱かれたりキスをしたり、そういうことをする度に幸せとかそういう感情よりも死ぬんじゃないかって思うくらい辛くて苦しかった。また誰かに恋をするだろうか。

さいきん

10月になって、やっと涼しくなってきた。
去年大学の体育会のワンゲル部に入って週3のトレーニングをするようになってから代謝がどんどん上がり、低体温だった体は割と常にぽかぽか、末端冷え症に耳の後ろのリンパの晴れ、アトピー改善、蕁麻疹発症率減などなどほんとうに健康になったなアと思う。
健康なのは結構だけど少し歩いただけで汗が噴き出て仕方ないのはなんとかしたいけれど、、、


夏休みの部活動の山三昧の日々を終えて秋学期が始まりました。
春期はあまり学校に行ってなかったので(週に1遍はたぶん休んでた)成績がとても心配だったのだけどそこは知らぬ間に要領よくこなせていたようでほっとした。(要領のいい人はあんまり好きではないけど…。要領「だけ」いい人は、だな。)
春授業を全然入れていなかった分、秋は授業が沢山で大変。
秋からゼミが始まって、その先生というのがこれまたすごく捻くれた人で萎縮してる。
すごく頭のよい、冴えっ冴えのキレッキレな方なんだけどかなりのヒステリックで粘着質、言葉がキツすぎる等々、性格上にそれはそれは多くの問題を抱えていらっしゃる先生(くるり岸田似)。
勉強はすごく面白くって、実際に文化や資料に触れることを大切にするという方針なのでフィールドワークはもちろん美術展博物館展示会にも多く足を運んでは考察メールをせっせと書いて回覧する毎日を過ごしている。大学生ってふつうこういうものなんだ、春学期と昨年の私は大学生ではなかったなーと、勿体無いことをしたなあと反省。


春は家に居すぎたのが悪かったのかなあ。
時間に余裕があって(学校に行かないことで自ら作ってたということもあるけど)睡眠時間もちゃんととってってしていた春よりも、忙しくて目が回りそうな今のほうがよっぽど精神的に安定している。
日記やら手帳やらを見返すとあんまり暗くって悲しくなるもんなあ、少しは元気になれてる!とおもう、落ち込んでいる暇すらない、こういう荒療治というのか?強引にでも外に出てっていうのは私には向いてるのかもしれない。
一度にいろいろ考えるのは苦手だし。
でもやっぱりちゃんと眠ったり参考文献以外の本を読んだり部屋の掃除をまる1日かけてするとか、そういう息抜きしたりはしたいなあ。

ストーブ

7月も6日目。
関東は梅雨明けをしたそうだけどなんとなく嬉しくないな〜
夏生まれなのに夏はすぐにばてるので苦手、、、

最近は少し落ち着いて学校も休まず行っている。よし、よし、って確かめながら毎日進む。

最近源ちゃん(星野さんね)の歌をよく聴いているのだけど、はっとした曲があった。
セカンドアルバム『エピソード』11曲目「ストーブ」


ストーブという言葉が歌の出だしにもあるから、私はずっと季節は冬なのねーと思って、そのあとの歌詞をちゃんと聞いてなかった。
先日源ちゃんの歌詞ってどんなこと書いてあったっけとゆっくり歌詞を読む機会があって、その時に初めて気づいたのだけど、この曲人が亡くなったことを歌ってる。
ストーブっていうのは暖をとるそれではなく亡くなった人を荼毘に臥すための炉のことだった。
人が亡くなってっていう歌は例えばミスチルの「いつでも微笑みを」とか、フジファブリックの「黒服の人」とかあるけど、火葬のことまで歌ってる歌って滅多に聴かない(というか私はこの曲が初めてだった)し、とても歌にしにくいテーマだと思う。

父親の火葬は私にとってすごくショックな出来事だった。火葬に立ち会ったのも初めてだった。
あとに残った骨の白さっていうのはすごく記憶に残っていてその「骨」の印象が鮮烈すぎて今も夢に見てすごくいやな気持になるほど。
ほとんどの人が決していい思い出を持っていないであろうテーマを歌にするのはとても難しいことだと思う。
棺の小窓を閉めて、お酒を飲んで、ストーブが消えたころにその固く閉じた扉をあけてかけらを拾う、その一連の具体的な流れは火葬とわかるように書いてあるのに、哀しさだけ伝わってくることは決してない。

私にとって「いつでも微笑みを」は少し明るすぎるし、「黒服の人」は暗すぎる。
そう思って父親のことがあった後、2曲とも今まで聴いてこなかった。
「ストーブ」の歌詞をちゃんと読んで、どうして上の2曲はなんとなく自分にとってだめなのか考えたら、2曲とも具体性に欠けているからだと思った*1
「ストーブ」には、私の経験した火葬という具体的な部分がちゃんと書いてあって、悲しい思い出なんだけどそれをあったことと認識してその先のことを考えられるから聴けるんだと思う。

長く続く日々の 景色が変わるよ
見えぬ明日 足がすくみ うつむけば
見覚えある気配が 手を引くよ

こういう言葉が曲中にあって、源ちゃんのやさしさがうかがえる。
絶望のなかにも煙になってしまったその人の気配を感じられるだけで、少しは前に進めそうな気持になるものだよね。

星野さんまた休養に入るそうだけど、病気が父親が他界する原因になったものと同じということもあって他人事に思えなくて、本当に心配しているししっかり療養して戻ってきてほしいです。

星野源 ストーブ 歌詞 - 歌ネット

*1:2曲はそれぞれ近所の人・後者はたぶん作者の友人?が亡くなった設定のようで、お葬式や火葬についての具体的な歌詞はない